荻生そらい『そらい学』☆新月☆

荻生そらい(江戸中期の儒学者)『そらい学』

一、人の長所は用いられて現れる。まずやらせてみること。


一、人の短所を探す必要はない。その長所のみを活かせ。


一、自分の好みの人間だけを用いてはならない。


一、小さな失敗を咎(とが)めるよりも、先ず事の重大さを判らせる。


一、一度仕事を任せたら、最後まで責任を持ってやらせる。


一、上司と部下を争わせるような仕事はさせない。


一、有能な人材ほど個性が強いが、それを嫌ってはならない。


この『そらい学』は後の佐藤一齋にも影響を与えた。

このような人物の下では人は『学んでみたい、働いてみたい』と思うだろう。他人の為に尽くしても、それは、”損”と思わずに、むしろ自分を誇らしく思えてくるに違いない。他人を責める前に、まず己を責める。これも”恕”の一つだといえる。仕事上での不平不満は誰にもあるが、

『得は”徳”を以て行う事で、損が”尊”に繋がる』

《損をして居ると方が社会に貢献しているのだ》というぐらいの気概を持ちたい。


『人に施したる利益を記憶するなかれ、人より受けたる恩恵は忘るるなかれ』
バイロン



☆76☆其じょ可☆より(修身学のすすめ)



(10時52分)




『子貢問いて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者有り也と。子曰く、其れ恕(それじょ)か。己の欲せざるところは、人に施すこと勿かれ』とは『論語』にある孔子と弟子・子貢の会話である。

子貢は孔先生に訊いた。
『先生、一つの言葉を胸に秘め、生涯それを守っていれば良い人生を送れる。そんな言葉がありますか?』

孔子はこれに答え『それは思いやりかな?自分がされて嫌な事は同じく人にもするものではないね』 というような意味である。



人間の動機の基本は”損得”にある。当然誰しもが得を少しでも多く欲しがる。しかし、この損得勘定は人間の精神地位から見ればかなり低い所にある。
その上に、”己に恥じていないか”。更にその上に”世の為に自分が何ができるか”がある。

自分が得をする事だけを考えていれば、必ずまわりの誰かが損をする。これは単純な引き算でも計算できる当たり前の事だ。しかし、勘違いした個人主義とエゴがもてはやされるこの時代には、多くの人がこの事に気付けないでいる。

だからこそ恕(思いやり)を持っていたい。
国民の半数以上が”恕の精神”を持てば国は栄える方に転じる。
これも単純な足し算でも判る。

戦後すぐの日本人はこの道理が判っていたため必死で働いた。それから60年、すっかり我々の世代は先人達の”恕”を食い潰し、次世代に借金のみを残してしまった。慌てて経済政策をしているが成果は上がらない。それもそのはず、経済の要となるのはやはり人である。教育に力を入れずして人材など育とうはずがないからだ。 江戸中期の儒学者・荻生そらいは人材を活かすには次の事が必要であるとしている。


上記の『そらい学』



☆76☆其恕可☆より


(11時24分)




【今晩のカレンダー】


【仕事に雑用はない】

舞台の役者の演技を大勢が支えている。
すべての仕事が、欠かすことのできない、尊い役割を担っている。



【機械も道具も金銭も『いのち』を宿してる】

物に挨拶し、物と対話しよう。それぞれの本来の機能を発揮させ、大切に扱えば、生き生きと応えてくれる。



【短所の裏から長所がのぞく】

良い所は、隠れていることが多い。
少し、角度を変えると、その良さがわかってくる。




(16時11分)




【日はぎカレンダー】

2013年4月10日(水)
旧3月1日
四緑【先負】
ひのえ うま

京都平野神社桜祭】【三りんぼう】【不成就日】



二十八宿【参】
財宝を求め、養子を取り、造作、遠出に吉。(大潮)



(金言)
【足る事を知って、及ばぬ事を思うな】



(13時12分)